「よつば」です。
個人的には常々思っていることなのですが、発達障害の人って、育った環境にも恵まれていないことが多いと思います。
Twitterを始めたての頃に何気なくツイートしたのですが、比較的多くの方が共感してくれたので、そういう経験に自覚のある人も多いのではないでしょうか。
発達障害の人って、環境にも恵まれないことが多い。
「それは屁理屈だ」とか、否定されて生きてきた人、絶対います。
そのまま大人になって、承認欲求だけこじらせているものだから、親しい人ほど傷つけたりしてしまう…。
でもそれは、自分を認めてほしいからだったりするんですよ。
切ないですね…。
— よつば@ASD/ADHD/双極 (@Yotsuba_ddsit) August 7, 2019
これについて思うところはたくさんありますが、今回は、「環境が発達障害をさらにこじらせている」と思う部分について書いていきます。
上記のツイート内容を掘り下げていくようなイメージになるかと思います。
親しい人ばかり傷つけてしまう
特に親や、恋人・配偶者に対して、イライラしたりすることが多くなり、結果的に何度も傷つけてはいないでしょうか?
よつばはまさにこれに当てはまっており、大きな悩みごとの一つでした。
なぜ、自分にとって大切な人なのに、傷つけるようなことを言ってしまうのだろう。
ずっと自分の中にある疑問だったのですが、発達障害と向き合って生きていく中で、少しずつその原因がわかるようになっていきました。
他人から認められてこなかった
発達障害を抱えている人の多くは、他人に認められる・褒められるという経験が、一般的な人と比べて圧倒的に少ないことがあります。
発達障害を原因として、
- 勉強ができない
- 運動ができない
- 友達ができない
- 仕事ができない
こんなことが普通に起こりえるので、どうしても他人から認められるということが少なくなります。
具体的な話を少し書きます。
よつばは中学生くらいまでの頃は、なにをやっても「平均以上にできる人」でした。
テストの点数は常に平均以上、体育も音楽も美術も技術も、なにをやっても平均以上にこなせていました。
上に書いた一例とは、一見すると真逆のことを書いているようなのですが、それがそうでもありません。
残念なことに、みんなが当たり前にやっている「席にじっと座る」ということが、とにかく苦手だったのです。
そのことから、授業の出席率は誰よりも低く、少し悪目立ちしていました。
家での宿題にも手が付けられず、ほとんどこなすことさえできない日々が続きました。
次第に学校へ行く回数も減り、仮に学校へ行ってもクラスには入らず、保健室に通うような日々になっていきました。
中学生というのは、自分では大人になったつもりになっているのですが、まだまだ子どもです。
よつばは、自分がなぜこのような境遇に追い込まれているのか理解していませんでしたし、それを知りたいとも思っていませんでした。
この状況を上手く言語化できないので、
「勉強は嫌いだから、やりたくねー」
と、まるで「不良」のセリフのようなことを言い出すのです。
本当は違うのにもかかわらず、です。
授業に出るように先生に説得されても、
「成績は悪くないから問題ないだろ」
「教育は親の義務であって、俺の義務じゃないから」
そんなことを言って誤魔化していました。
そんなことを繰り返していくうちに、「それは屁理屈だ」とか、「あいつはもうだめだ」という態度を取られるようになっていってしまうのです。
そして、これはほんの一例にすぎません。
小学生時代も、学校の先生にはなにかと「それは屁理屈です」と言われていました。
それになにより、親からも「屁理屈だ」と言われることはとても多かったです。
どこにいっても「否定」されるというのは、本当に苦しいことでした。
発達障害者は感情のやり取りに問題があることがほとんどですから、ついついものごとを理屈で考えようとしてしまっています。
なので余計に「屁理屈だ」などと言われがちなのでしょう。
屁理屈という言葉を言われないまでも、褒められることが少ないとか、よかれと思ってやったことでなぜか叱られたとか、そのような経験がどうして多くなってしまいます。
結果的に、極端に人に認めてもらえなかったまま、大人になってしまうのです。
こじれた承認欲求
否定されたり、認めてもらうことが少なかった発達障害者の人は、承認欲求を完全にこじらせています。
そのため、意識的にしろ無意識的にしろ、「自分を認めてほしい」「自分をわかってほしい」という気持ちがとても強くなってしまっているのです。
そこで自分を否定されると、必要以上に反発してしまったり、自分の思うようにいかないと、「どうしてわかってくれないの」と相手を責めたててしまったりしてしまいます。
「承認欲求がこじれている」とだけ聞くと、大したことではないように聞こえますが、「わかってほしい」という気持ちから、錯乱して暴れだすようなことがあってもなんら不思議ではありません。
さらに言えば、承認欲求をこじらせている当事者の人は、自分が「認めてもらいたい」と思っていることに、気がついていないこともあります。
そこがこの問題をさらにややこしくしているのですが、一見加害者のように見えるこの当事者こそ、最大の被害者でもあるのです。
親しい人ばかり傷つけてしまう理由
冒頭でも書きましたが、よつばは「親しい人ばかり傷つけてしまう」ということが悩みの一つでした。
ひどいときは癇癪を起こして暴れまわるようなこともあり、自分でうんざりすることさえありました。
これが誰彼構わずやってしまうことなのであれば、ある意味納得もできます。
しかし、はっきり言って、外ではお行儀がよく、仕事中に嫌なことがあっても悪態一つつきません。
ただ、ここまで書いてきた「承認欲求」というものを知ったことで、自分の行動の辻褄が合うことに気がついたのです。
こう考えると確かに矛盾はしていない気がする……と、そう思うようになりました。
早い話がこうです。
- 親しい人だけに承認欲求は出てくる
- どうでもいい人には承認欲求は出てこない
当たり前と言えば当たり前ですが、自分のことを「わかってほしい」という欲求なわけですから、人を選ぶのです。
また、その人に対して「甘えたい」というような、少し弱った気持ちをぶつけている部分があります。
そのため、立場が対等ではない、例えば上司や目上の人に対しては、この感情が出てくることがほとんどありません。
こうして考えてみると腑に落ちることがとても多く、よつばは納得しました。
ただ、「自分のことをわかってもらいたいと思っている」「甘えたいと思っている」というようなことについては、全く自覚のないことが多いと思うので、一度自分の胸に手を当てて聴いてみる必要がありそうです。
悲しいような恥ずかしいような結末になるのですが、承認欲求をこじらせて他人を傷つけてしまう人は、このような感情の動きがあるのではないかなと思います。
親しい人ばかり傷つける承認欲求、さいごに
今回この記事に書いた、よつばのようなケースは、周囲の人にとってはとても厄介なケースなのではないかと思います。
なので、周囲の人も困り果てているかとは思いますが、このことは、おそらく当事者自身にとっても大きな困りごとになっているはずです。
好きなはずの相手をむやみに傷つけてしまうので、「自分が好きだと思っている気持ちは偽りなのだろうか」というような思考が、いつだって頭から離れません。
よつばは、自分のやってしまったことが「承認欲求」からくるものだと理解したときに、「認めてほしいあまりに、こんなことをしてしまったのか」と、絶望のような気分を味わいましたが、どこかで納得する自分もいました。
理解したからといって、すぐに行動を改善できるほど生やさしいものではなかったのですが、親しい人を傷つける度に「ああ、また甘えてしまったんだな」と自覚することができるようになります。
そして、時間を置いてからでも「ごめん」と一言言えるようになって、少しずつ改善されていってるのではないかなと、よつばは感じています。
こじれた承認欲求が原因で、このようなことになってしまっている人は、「認められずに育った過去」があるので、ある意味被害者でもあります。
もしもこのような人が周囲にいて、それで困っているという人がいれば、頭ごなしに否定するようなことはしないでください。
きっと、行動は悪化してしまいます。
難しいことだとは百も承知ですが、相手の気持ちに寄り添うように接してあげれば、少しずつ変化がでてくるはずです。
ちょっとふわっとした文章になってしまったかもしれませんが、これでこの記事を終わりたいと思います。
さいごまでお読みいただき、ありがとうございました!